病を恐るゝ勿れ  大平 隆平

 天理教信者の多くが随分不条理なる教会の制度及び儀式を忍んで教会通いを続けているのは信心を止めれば又元の身上(疾病)なり事情(不幸)なりが復活するを恐れる臆病心からである。

 彼等は金を出すことは厭だ。けれども金を出さなければ病気になるを恐れるのである。

彼等は教会のために働くことは好まぬ。けれども種々の不幸が彼等の身を襲わんことを恐れるからである。

勿論中には此う云ふ怯懦の信心より超越して真に真理を愛し真生活を愛するものもないではないが其れ等の人々は余程信仰の進んだ人である。大部分の人 は以上述べたる疾病不幸の再来を恐れる恐怖心より心ならずも緩慢な信仰を続けているのである。

 

 けれども此の世界に於て吾人の恐るべきものは肉体の病ではない。心の病心の癖である。云い換えれば性癖性情である。此の性癖此の性情あるがために人は受くべき自然の幸福より離れて小さな世界に呻吟しなければならないのである。

 けれども性癖と云つても一概に悪い性癖計りではない。中には随分美しい性癖もしくば性情はある。けれども吾人が実際生活上の不幸を醸すのは其う云ふ良い性癖性情のためではなくて多く片寄つた不具の性情のためである。随つて吾人にとつて最も焦眉の信仰問題は先ず自己の悪癖を打破することである。肉体の疾病は此の精神病の全治に伴つて全治するのである。

 けれども此処に一つの問題は以上の性癖即ち精神病を全治することが信仰の奥義ではないと云ふことである。云い換えればほしい、をしい、かわゆい、にくい、うらみ、はらだち、ゆく、こうまんの性癖を打破するだけにて信仰の要義は尽きていないのである。真の信仰の奥義は真我の実現即ち朝起き、正直、働き其の者となることである。

 

 然るに多くの天理教徒の信仰の標準は未だ此処迄達していない。彼等はただ肉体の病を助けられたるが故に信心せぬと云ふが如きものではない。病は助からうが助かるまいが不幸は除去せられやうが除去せられまいが真理なるが故に信ずるでなければ本当の信神とは云えない。本当の信神とは病が助かつても助からぬでも真理なるが故に信じて正しき生活を継続して行くことにある。

 

 蓋し因縁と云ふものは今生積んだ因縁もあれば前生積んだ因縁もある。小さな因縁もあれば大きな因縁もある。軽症もあれば重症もある。大難もあれば小難もある。小さな因縁なれば一時の心機転換に依つて直ちに精神的健康状態に復帰することが出来るけれども大なる因縁になれば長い間の習慣性のために一時の復活が出来ない場合出来ない人間がある。従つて自己の因縁の大小自己の信仰の大小を計らずしてただ助かる助からぬと云ふ眼前の利益を標準として信仰しもしくば信仰せざるは未だこれ真の信仰心を有せるものと云ふことは出来ない。

 

  たとい現在に於て助かつても助からいでも自己の欠点、悪癖、悪習慣を自覚して正しき性情の発展に向つて努力するこそ真の信仰を求むる意識ある人とこそ云ふべけれ。もし其の長い努力の期間に於て自己の悪癖が真に矯正せられたる時あらば其の時こそ真に吾人は健全なる精神をもつて健全なる幸福を享楽する資格ある人となるのである。

 

 畢竟神の立腹即ち身上事情を恐れて自己の所信を断行し得ざるの徒はただこれ臆病者のみ。もし自己の正しと信ずることを断行して神の御異見を戴いたならば戴いた時こそお詫をすれば良いのである。何んぞ始めより地頭の一喝を恐れて自己の正義を断行し得ざる如き臆病に堕する必要あらんや。従つて私は云ふ。病を恐るゝなかれと。吾人の恐るべきは理である。理に反せる自己の非行である。誤つた精神である。苟も自己の精神に於て何等疚しき点を有せざれば神を憚る必要はない。況んや人をや。

 

  私の希望するは実に此の種の人である。徒らに神戸人との顔色を読むことに巧みにして自己の所信を披瀝し得ず断行し得ざる烏合の信徒にあらざるなり。従つて私は云ふ。 病を恐るゝ勿れと。真の信仰者の信条はただ理(神)を愛するの一事にある。其れに依つて生ずる結果の善悪は私の問ふ所でない。これ我が信条である。   

     

 

              (紀元九億十万七十七年二月十一日)